岡山には生産力と交易力が備わっていたため、西日本の中心となった。その結果、造山古墳が築かれた。
岡山市には全国で4番目に大きな造山古墳がありますが、上位3位までは、すべて大阪府です。つまり、造山古墳はヤマト王権の中心であった奈良県の古墳よりも大きいわけです。古墳の大きさが、葬られている王様の勢力を表しているとすると、造山古墳の勢力は絶大であったことがわかります。では、造山古墳は突然築かれたのでしょうか。造山古墳は古墳時代中期の時期です。それ以前の、古墳時代前期にも中四国で一番大きな金蔵山古墳が築かれています。岡山は伝統的に大きな勢力を持つ地域だったのです。それは、広大で肥沃な岡山平野、大河川が3本も流れていることによる豊かな水源によって稲作が拡大しているとともに、日本列島の物流の中心であった瀬戸内海と接していること、いわばナイル川の肥沃な土壌と地中海の備わった古代のエジプトと同様に、生産力・経済力・政治力が揃った地こそが岡山だったわけです。古墳時代、西日本のセンターとなった岡山には、熊本から、福岡から、香川から、各地の人々が集まり、超巨大古墳である造山古墳が築かれたのです。
万富には、当時の最先端の焼き物を焼くことができる技術が蓄積されていた。その技術が一大国家プロジェクトの成功を左右した。
東大寺の瓦は、源平の合戦で焼け落ちた奈良の東大寺復興のために焼かれたものです。時代は、鎌倉時代です。なぜ、瀬戸万富の地が選ばれたのでしょうか。その謎に迫るために、時代を遡ってみましょう。水田稲作が朝鮮半島から伝播してきたように、新たな技術の多くは、朝鮮半島から何度も伝わってきました。その一つである焼き物づくりのうち、窯をつくって高い温度で焼かれる青い色の焼き物である須恵器が、大量につくられたのが、万富の南にある瀬戸内市の邑久古窯跡群です。これは、いわば古墳時代から奈良、平安時代まで続いた一大コンビナートといえるもので、岡山で消費される須恵器だけではなく、都へも運ばれました。そのため、継続的に工人の雇用があり、焼き物づくりの技術伝承も行われていました。しかも生産規模が大きいことから、窯周辺だけではなく、かなり広い範囲から生産へ参加する工人がいたと考えられます。また、その技術を地元へ持ち帰り、新たな生産を行った地域もありました。万富周辺もその一つで、奈良時代や平安時代の窯跡が幾つも見つかっています。つまり、瀬戸内市から万富にかけては、当時の最先端の焼き物を集中的に生産するテクノポリスだったのです。その技術的裏付けのもと、万富には東大寺復興という国家的プロジェクトの一翼を担うことが期待されたのです。
高松城水攻めは、岡山で生活してきた人ならではの発想。
岡山に住む人々は、弥生時代から戦い続けています。それは、水です。発掘調査では、洪水で埋もれた水田の遺跡がしばしば見つかります。何度も何度も洪水の被害を受け、そのたびに復旧し、立ち直り、その繰り返しによって豊穣の地、岡山はできあがったのです。その経験によって、水を統御するための堤防や井堰がつくられ、土木技術が飛躍的に発展しました。その技術は岡山に住む人々では共有されたものであったと考えられます。以上のように整理してみると、高松城で水攻めが行われ、成功した謎が見えてくるのではないでしょうか。正式な歴史が語るように、水攻めの作戦を採用したのは黒田官兵衛や羽柴秀吉で、岡山以外の人ですが、この作戦を思いついたのは、旭川の洪水と戦ってきた人々、宇喜多家の人々であったと考えてもよいでしょう。高い土木技術が培われていた岡山の人々が下支えしたため高松城水攻めは完成し、その一方で、水への対し方をよく知っていた高松城の人々も籠城に耐えることができたと考えられます。
宇喜多秀家は、秀吉からかわいがられていたこと、奥様の実家が有力大名の前田家であったこと、そして宇喜多家が先進性を理解できる大名家だったため五大老の一人になった。
宇喜多秀家の人となりや、前田家との姻戚関係、秀吉との関係は語り尽くされた観もあります。そこで、岡山から謎を解き明かしてみたいと思います。宇喜多氏は、言わずと知れた戦国大名です。ところで、戦国大名の拠点地が江戸時代にも踏襲され、しかも県庁所在地になっている例は、意外と少ないことをご存じでしょうか。近隣では、毛利氏の吉田郡山城、長宗我部氏の岡豊城、尼子氏の月山富田城などで、織田信長の安土城も同様です。戦国大名は戦う大名であり、戦闘原理が拠点を決めるための大きな要因を占めていたためです。その発想を完全に転換したのが秀吉の大阪城で、領国の運営といった経済原理を中心に据えて築城しています。岡山を拠点と定めた秀家の父、直家もその先進性を理解し、岡山の発展性を読み取ったのです。それは直家個人の発想ではなく、宇喜多家全体の理解であったことから、秀家にも引き継がれ、岡山城下町の発展に力が注がれました。つまり、宇喜多秀家が、日本の五大老に選ばれたのは、宇喜多家が当時の先進性を理解し、実行できる大名だったからと言えるのです。その結果は、今の岡山にも引き継がれています。
岡山には干拓の実績が伝統的に存在し、しかも新たな干拓技術を受け入れる気質が備わっていた。
「ローマは一日にしてならず」これが全てを物語っています。岡山の干拓は江戸時代から語られることが多く、より遡っても宇喜多氏が早島で行った干拓が語られています。しかしながら、今から800年まえに描かれた絵図には、岡山市中区平井で干拓が行われたことが描かれています。かなり以前から岡山では干拓が事業として行われていたのです。もう少し古い時代を見てみましょう。弥生時代、今からおよそ2,000年前、当時の海岸線近くにも集落が営まれています。海水を煮詰めて塩を生産していることも発掘調査で明らかになっていますが、それだけでは集落を維持することは難しく、周辺で水田稲作も行っていました。それは海水からの塩害との戦いでもありました。つまり、海に向かって水田を広げていく開発は、岡山では伝統的に積み重ねられていたわけです。あらたな干拓技術が加わり進化し、近世の干拓となり、近代の西洋式の技術を取り入れた大干拓となったのです。そして、何より現状に満足せず、常に時代の最先端の技術を積極的に取り入れることができた岡山人の気質によって大干拓は成功したのです。
酒造会社の熱い思いを支える良質の水と、稲作技術。
雄町米とは、江戸時代に鳥取県で見つけられた生育のよかったイネが起源です。当時は日本草と呼ばれ、酒米としてすぐれているとの評判がたち、昭和初期には雄町米でないと吟醸酒の品評会への入賞は不可能とまでいわれていました。ところが、原生種であることから栽培が難しく、昭和52年には岡山県全体の0.02%の面積にしか作付けされなくなってしまいました。その窮状を救ったのが赤磐市の酒造会社の熱い思いです。日本酒ブームにものり、昭和52年には11ヘクタールであった作付面積が、平成9年には430ヘクタールにまで増え、見事に雄町米は復活しました。雄町米を使用した吟醸酒は口当たりもよく、上品な白ワインにも匹敵し、日本酒が苦手と思っている方にもおすすめできる一品です。雄町米の復活は、岡山人の熱い思いは当然ですが、雄町の冷泉に象徴される良質の水があり、吉備の国を支えてきた水田農耕の技術がベースにあったからといえます。
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