当事者になり、被災者目線での
支援に発想が変わった
神原 咲子
倉敷市真備町の実家で西日本豪雨に遭遇。被害を免れた実家を拠点に、「暮らしを取り戻す活動」を精力的に行った。これまで国内外のさまざまな被災地で災害対応をしてきたが、当事者側に立つと、支援のあり方がまるで違って見え、発想が変わった。
避難所に張り出された大量のメモ。見慣れた光景にも、違和感を抱いた。「これでは必要な情報が被災者に届かない」と実感し、共感を得たエンジニアらと共同開発。1週間で復興支援サイト「まびケア」を作った。2カ月後に派生サイトとして作ったのが「まちケア」で、千葉や熊本の豪雨災害でも情報配信に貢献した。
「被災者が個々のニーズに応じて自分で動けるのを助ける仕組みづくりがとても大切」と説く。
被災者をエンパワーする意義
「まびケア」のサイトでは病院、薬局、飲食店、トイレ、ふろなどの復旧情報や営業時間など「今、被災者が必要とする情報」を、地図に落とし込んで発信した。デジタル化したことで、いつでも、どこにいても、欲しい情報が入手できると、被災者の生活再建も早まる。さらに「まちケア」のアプリには、各自治体のハザードマップや自宅からの避難経路を示す「マイマップ」などの機能も加えた。
「どんな支援も、被災者のニーズには追い付かない。誰も取りこぼさないと努力することはもちろん必要だけれど、被災者一人一人が動いて踏み出し、近くの人とつながるのが復興の最初の一歩。まちケアは被災者にエンパワーする支援ツールとして意義がある」と力をこめる。
ストレスで母乳が止まる
避難所を回り、対応に終われていたさなか、授乳に戻った母屋で母乳が止まった。生後7カ月の長男が泣き続ける。原因はストレスだった。
医療支援者が長男を離して沐浴をしてくれた。その間、別の支援者が母乳マッサージをしてくれた。心が緩むと、母乳も出始めた。
1週間後、今度は咳が止まらず、肺炎と診断された。「いったん神戸に帰って休養しろ」と新幹線に乗せられたが、「自分だけ休んでいられない」と2日後に真備に戻った。
過酷な現場。支援者にも支援が必要だった。
「お互いさま」の災害対応
7月6日夜、自身の母親の呼びかけで、他の地区から避難してきたママ友たちが母屋に泊まった。翌朝から、隣接する店舗スペースは支援の連絡拠点となり、県内外から延べ147人の支援者が出入りした。一角は、個人や団体からの支援物資の預かり場と化し、物資を受け取りに来た人は延べ141人を数えた。
母屋では、被災した人同士で子どもの託児ボランティアが始まった。真備の人たちの「自分たちでなんとかしよう」「お互いさまで助け合おう」という関係性の良さが、災害対応として表れた。
「両親の動きを見て、個人個人がより良く生きようとすること、日頃から人のつながりを大事にすること、それ自体が防災だと感じました。どう支えるかに徹するのが行政や医療、看護の役目。そして、国内外の機関や学問領域を超えていろいろな支援のコーディネートをしていくことが私の使命です」
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